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日本の景観、パチンコ店、失われたもの
- 2010-04-04 (日)
- 生活・文化
以前から気になっていたアレックス・カーの「美しき日本の残像」をようやく手に入れて、読んでいます。
カーは、美しい日本はもう過去のもので二度と戻らない、と言います。この本には、興味深いことがたくさん書かれていますが、その中で頭に血がのぼってくるような痛烈な思いにかられた箇所がありました。おそらく20年も前のことなのだろうけれど、こんな話がでてきます。
「ヨーロッパの建築家を四国と奈良のほうに案内しました。僕は美しい寺と自然を見せるつもりでしたが、彼の目にはパチンコ店ばかりが映りました。『古い神社仏閣は死んだ遺跡です。京都の開発を見れば、今の日本人にとってそうした文化は無関係だとわかる。けれども新しいオフィス・ビルやアパートの造りはお粗末です。パチンコ店だけは豪華で、創造性に富んだファンタスティックなものになっています。もちろん悪趣味ですけど、その悪趣味こそは今の日本ではないか? パチンコ店はその趣味を徹底したものですから、日本の建築物の中ではそれは一番念が入った面白い建物だ』と彼は言いました。
<中略>
パチンコ台の前に座るのは現代の瞑想である。パチンコ台の釘の並びは現代のマンダラだ。… 京都の新しい建物はどれもきらきらぴかぴかで、行政と伝統文化組織のエネルギーはパチンコ店趣味に走っています。考えてみれば、パチンコ店は現代の根本大塔(*)だ。」
これが今の日本の姿なのです、実際…
小学校4年生の終りまで育った私の故郷、神奈川県横須賀市の鴨居は、ペリー来航で有名な浦賀のすぐ近くで、山と海に囲まれた小さな村でした。ピーヒョロロと鳴きながら空を飛びまわるトビの姿を見上げながら、年長のガキ大将に連れられて山の中に入ってあけびをとって食べたり、海に潜って魚を捕まえたりしていました。山の中には秘密の場所があり、夏は一人で、ときには小さな妹を連れてそこへいき、カブトムシやクワガタを捕まえたり、蟻地獄の巣にアリを落として遊んでみたり、と楽しい時を過ごしたものでした。
カーがその昔惚れ込んだ四国の祖谷の見事な自然と民家ほどではないにしても、「美しい日本」という言葉から私が連想することの底には、そうして遊んだ山や海、青い田や畑、藁葺き屋根の家などのイメージがきっとあるのでしょう。
後年、大学生になってから何度も一人で鴨居を尋ねてきました。しかし、訪れるたびに変わってゆく町の姿に、やりきれない思いを抱いていました。今では、昔あった山は跡形もなく消え去っています。山はすべて完ぺきに住宅と化してしまいました。海は依然としてそこにあるけれども、海岸線はきれいに整備された道路になり、護岸工事があちこちで行われてテトラポッドが並んでいます。もはや子どもたちが探検をするような場所はどこにもありません。(そんな中でも、知り合いの漁師の家には若い跡継ぎができて元気に漁をし、海苔をとって暮らしていますが。)
カーは、「日本のどこに行っても風景が同じになってしまった。京都の町はもうすっかり壊されてしまった。その象徴が京都タワーだ。奈良は京都より開発が進んでいないからまだ良い」と言っています。政治家や行政を引き受ける者の責任を思わずにはいられません。
「失われた景観 – 戦後日本が築いたもの」(松原隆一郎著、2002年刊)には、日本の日常景観がなぜこんな奇妙なものに変わってきたのかが述べられています。その中に、神戸市の都市開発の話しが出てきます。神戸市は先進的な都市計画で注目されていましたが、住吉川景観訴訟では、訴えた住民側が敗訴し、日常景観を壊す高架が建設されてしまいます。その後何年かして東京の国立市で高層マンションの建設に反対する住民訴訟が起こり、一審は勝訴したものの、二審では逆転敗訴してしまいます。しかし、この件が契機になったのか、景観法という法律が制定されています。

写真: いろは堂で販売している和ろうそくの卸元、高澤商店の店舗。
国の登録文化財。石川県七尾市
ちと話しが固くなってしまいましたが、前掲の本やその他の本をいくら読んでも、日本人がなぜ、これほど昔からのものを壊してしまうのか、なぜ山を跡形もなく平にしてしまうのか、私には不思議でなりません。
何百年もかかって奇跡的な歴史の巡り合わせの中から育まれてきた日本の文化や景観は、わずか数十年で見事に変貌してしまいました。我々は自分の国だけでなく、東南アジアの国にも同じことをしています。ああ、嫌だ。
※ 弘法大師空海が高野山を開闢するときに、密教独特の伽藍の構築を構想し、東西に中心的存在として多宝塔が建立された。特に東側の塔は約48メール近い高さの巨大なもので、これが根本大塔と呼ばれています。落雷などの被害を受けて何度も建てかえられているそうです。
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伊豆稲取: 雛のつるし飾り
ちょっと投稿の時期が遅くなってしまいましたが、雛祭り関連のトピックをひとつ。
私は畳の部屋で寝ていますが、枕元の壁に2月のある日から可愛いらしい人形がつり下げられました。気になって調べてみると、雛祭りに因む日本三大手芸と呼ばれているものがあることを初めて知りました。福岡県柳川の「さげもん」、伊豆稲取の「雛のつるし飾り」、山形県酒田の「傘福」だそうです。
枕元につるされていたのは、伊豆のお土産だと妻から聞いたので、伊豆稲取の「雛のつるし飾り」のようです。江戸時代から伝わるもので、長女の初節句に、無病息災と良縁を祈願してつるします。本来は、30cmほどの下げ輪に、170cmほどの赤い糸を5本つるし、それぞれの糸に着物のハギレで作った飾り人形が11個つけられます。これが雛飾りの両サイドにつるされます。
つるされる細工物には、桃(長寿)、猿(魔除け)、三角(薬袋・香袋)、巾着(金運)、柿(長寿・厄除)、ほおずき(女性のお守り)などがあります。

本来のものは110種類も細工物がつけられ、豪華ですが、枕元のこのつるし飾りはシンプルで、とてもかわいい。わたしとしては、これだけで十分満足。
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九谷焼、大正時代からの招き猫

はじめて見た時から「かっこいいな」と思っていました。この色、このデザイン。九谷焼窯元、長高郁夫さんに電話でお尋ねしました。この色柄は、大正時代、九谷焼ではじめて「招き猫」が登場してから続いてます、とのこと。つまり大正時代から続いた
Japan もう少し、Asia な招き猫、インテリア、ご贈答に如何でしょう。お値段は 3,000円から。ご購入はこちらからどうぞ!
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もうひとつの招き猫誕生話
- 2009-11-25 (水)
- 生活・文化

玉ちゃんの像
新宿住友ビル玄関前に鎮座する「玉ちゃん」、世界的彫刻家、流政之氏の作品です。
「碑文」
人にいのちあれば ねこにもいのちあり
江戸のさとを ひらきし太田道灌
この地の北で いくさに敗れ
あわや いのちを 失わん時
一匹のねこあらわれ にげ道をあんない
いのちをとりとめ 江戸を開いた
なれど このかくれた江戸の恩ねこも
ねこなるゆえに なものこらぬはふびん
江戸のいいたま 玉ちゃんと名づけ
のちのちまでの江戸のまもりとす
つくりびと 流 政之
ねこの生れ 文明狂年
新宿区西落合にある自性院の話。いくさで劣勢に立たされ、道に迷った太田道灌を一匹の猫が自性院に案内、道灌は危ないところを救われます。後に道灌はこの猫の地蔵尊を自性院に奉納します。この猫地蔵が、やがて自性院が「招き猫発祥の地」と呼ばれる、きっかけになります。世田谷豪徳寺と並ぶ、もうひとつの「招き猫発祥の地」説です。
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和裁デビュー スローファッションのはじまり
この春から和裁を習っています。女学校で和裁を教えていたという齢90歳の母が先生です。大腿骨を骨折してから自由に外出することができなくなった母の退屈しのぎとボケ防止、そして私自身の趣味と実益を兼ねて始めてみました。着物が大好きとはいえ、指が全部親指と言っても過言でない不器用な私にとってなんとも無謀な挑戦でしたが、縫うことがこんなに楽しいことだったなんて。今、針仕事にハマっています。
昔は、和裁ができなかったら嫁にいけないっていうくらい着物を縫うことは女性の一般常識だったようですが、私の年代では中学の家庭科で浴衣を縫う授業すらなくなり、和裁はすでに専門職になっていました。ですから和裁の基本すら知らない私にとって母の口から出る、尺による寸法、着物や和裁の用語は未知なる世界でした。
やるからには日本の長さの単位で教えてもらおうと、ものさしも cm ではなく、尺さしを使ってみることにしました。これがなかなかぴんとこない。1尺2寸って言われてもその長さの具体的イメージがつかめない。1 尺は30.3cm。1寸はその1/10で3.03cm。そうか、「1寸先は闇」というけれど、目の前のわずか3cm 先のことすらも予知できないってことか、などと関係ないことに感心。
型紙に合わせ布を裁断し、体にフィットするよう立体的に仕立てる洋裁と違い、着物は1枚の細長い布(反物)に最低限しかはさみをいれず、部分部分を縫い合わせるだけ。布の原形を保ったままです。
1反の反物は幅は40cm 弱ですが長さは11~12メートルもあります。この細長い布の端から順に袖2枚、前身頃と後身頃2枚、衿、おくみ2枚を割り当てて裁ちます。後は部分部分を縫うだけ。とにかくひたすら直線縫いです。小学校の家庭科でやらされた運針。あの苦手だった運針です。針の運びにも布のしごき方にもこつがあり、その都度母から手ほどきを受けています。
「繰り越しあげを縫って」「きせをかけて」「反返し縫いでね」と母から聞き慣れない言葉での指示が飛びます。手にした針で布と格闘。昔の女性は和裁なんて誰でも出来たんだよなぁなど己の不器用さに情けなくなりながら必死で針を運んでいると、いつの間にか無心になってしまいます。縫うという単純な作業が楽しくなってきます。
直線縫いなんてミシンをつかえばずっときれいで短時間でできちゃいます。現に最近の浴衣はミシンで縫ったものがたくさん出回っています。でも手縫いのほうが仕上がりがやわらかいような気がします。なにより手縫いには縫い手の思いがこもります。誰かが手間を惜しまず作ってくれたもの、自分がゆっくり楽しみながら作ったもの。この間雑誌で見たスローファッションという言葉がぴったりだ。
浴衣 step 1 積もる
春先から夏の終わりまでに麻の長襦袢と紬の単衣ができました。9月からは、もう夏は終わりですが、初心に戻って浴衣にかかっています。3着めにしてやっと、採寸、見積もり、布の裁ち方が頭に入ってきました。ひとつひとつの工程を大事に、そして楽しんで、私のスローファッションのはじまりです。
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お盆とお墓
- 2009-08-12 (水)
- 生活・文化
今週はお盆休みで、なにやら辺りは閑散とした雰囲気です。お盆なので、お盆らしいお話を少し。
皆さんは、自分にはないにしても実家にはきっとありますよね、お墓が。私はお墓をもっていません。私の親もお墓を持っていませんし、菩提寺もありません。こういう人間というか家って、日本にはどれくらいあるんでしょう。ふと思いました。
宮本常一という日本中をひたすら歩き回った民俗学者がいました。著作のひとつに「なつかしい話」という本があり、その中に作家の山崎朋子との対談があります。お墓にまつわる話が出てくるのですが、そこからかつての日本の庶民の生活の一端が見えておもしろいです。一部、ちょっと引用します。
山崎: ここ14, 5 年歩いていて、どこへ行っても墓地を訪ねるわけです。そうすると初めはわけが分からなかった。その村の者でない者がいっぱい墓地の中に入って眠っているわけですね。聞いてみると、それはちっともおかしいことじゃない。日本の村や町、港には、いろんな地域の人間が、旅人とも滞在者ともつかぬ恰好でしょっちゅう人が出入りしていた。そして、その人たちはその村なら村に必要な仕事をして、そこで生活していたのです。(中略)自分の墓石代だけはちゃんと持っていて、その出稼ぎ中の村で病を得てもう助からないと思ったときに、置いてくれている家の人に、お前の家には墓はあるか、と聞いたら、ないと答えられ、それならちょうどいい、おれは墓石代をもっているから、一つおれが眠ったらこれでおまえの家の墓を作れ、そしてついでにおれも入れておいてくれ、と言ってなくなった。そういう人が決して珍しくなかったということです。
もちろん、墓石代なしに家の客に入れてもらったり、自分の墓だけ作ってもらった人も少なくなかったのですが、こういう式の納まり方って多いんですね。どこへ行っても大なり小なりそういうのがありました。だから私は歩き始める前は、先祖代々の自分のふるさとに骨を埋めるということが日本人の昔からのしきたりだと思っていました。しかし、民衆の次元では必ずしもそうではない。なんだかあちらからもこちらからも食べるために、稼ぎに来た人たちがそこでたまたま死ねばそこで埋まればよい、という稼ぎ方といいますか、付き合いの仕方、死に方というものを、日本の民衆はしてきたらしい、とおもうようになりました。
宮本: そうでなければあちこちにあんなによそ者の墓があるわけはないですね。歩いていると至るところにありますからね。場合によるとその人が非常に不幸な死に方をしたということもありますよ。それで金も置いてはいかなかった。それすらも墓を建ててやる。だから、非常に孤独のように見えながら、孤独にはしておかなかった。」
出典:『なつかしい話』宮本常一著、河出書房新社2007年初版
その後、宮本はあるお寺に保管されていた過去帳にまつわる驚くべき実話を滔々と語っています。
宮本常一の本を読んでいると、村の「寄り合い」などで老人たちが、コミュニティの交わりを円滑にするためにああだこうだと知恵を出し、あっちとこっちをすり合わせてと、その役割を果たそうとする姿が生き生きと描かれている場面によく出会います。よそ者との付き合いもそういう中で作られてきたものなのかもしれません。
私の親は財産など何もありませんが、この春に消えた年金の一部が一括でもどってきたので、「ああこれで墓代ができた」二人とも安堵していました。人間いずれは死ななければなりません。どんな死に方をするにせよ、周囲の人たちには必ず後始末をしてもらわねばなりません。私も親に似てやっぱりお金にはさっぱり縁がありませんが、死ぬ時には、自分とかみさんの墓代くらいは持って、後始末を誰かに頼みたいと思っています。
さて、もう時すでに遅しですが、たまのお墓参りや、ご仏前に、珍しい和ろうそくはいかがですか。ご先祖様もきっと喜ばれるかと。
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外国人が見た日本
- 2009-08-06 (木)
- 生活・文化
「外国人へのお土産」のことを書こうと思ってネットサーフィンをしていたら(思わず使ってしまった懐かしい term…)、群馬県にある古本屋さん「古書・青林」のサイトに、「外国人が見た日本」というカテゴリでまとめた本のリストが見つかりました。全部で 108 冊もあります!
いやぁ、なんだか面白そうな本がたくさんあるなぁ。一番古いのは、建築家のブルーノ・タウト ― 有名な人ですね ― が書いた本で、1937年発行の「日本文化私観」。改めてウィキペディア(Wikipedia)で調べてみると、ナチスに追われて日本に亡命してきた人のようです。たくさん本を書いていますが、有名なところで「ニッポン」、「日本美の再発見」などがあり、在日期間はわずか3年ほどでしたが、その短い期間に多くの日本人にかなり大きな影響を与えたようです。群馬県の高崎にあった工業試験所に2年ほど在籍し、竹、和紙、漆器といった日本の素材を生かしたモダンな家具を作った、とあります。
タウトにはほかに「忘れられた日本」という本があって(正確にはタウトが直接書いた本ではなく、篠田英雄という翻訳家が編纂した本)、これについて松岡正剛が「千夜千冊」の中でこんなふうに言っていて、なかなか興味深い。
曰く、「タウトは他の日本を賛美する外国人とは違って、建築家・デザイナーとしての独自の展望をもって日本を再発見していった。(中略)タウトは床の間を絶賛する。床の間が宗教との関係をまったくもっていないにもかからず、すばらしいプロポーションをもった『祭壇としての趣向』をもっていること、そのわりに徹底して簡素でありうること、古びてもなお綺麗(ラインハイト)であること、またその家や空間全貌の文化的集中をもたらしうるものになりえていることなどに、感嘆する」。
ところが、「…そのうえで、この床の間の裏側には何があってもかまわなくなっていることに驚いたのだ。床の間の裏側に、たとえ便所があろともゴミ捨て場があろうと、日本の家屋は床の間の象徴性をなんら失わない。これは日本文化の「本来の宇宙的な意義」をあらわしているのではないかと言うのだ」。(注: {宇宙的な意義} とは、「そこに世界が集約されて表出されている」という意味だそうです。)
「つまりここには、清潔と汚穢とが『見えない対立』になっているのではないか。この緊張した案配を日本が失うとき、日本は最悪なものになるのではないか。そう、タウトは見抜いたのだ。」
タウトの言葉は独特で、即座には理解できないところがありますが、それにしてもなんと面白いことを言うのだろう。そうして、タウトは日本の「おかしな」点を次々と指摘しています。そりゃそうだわ、と思われることもたくさんあります。西欧の上っ面だけ真似して、調和も何もない。これが日本をダメにしている、と言っています。松岡は、西欧化が進めば進むほど、かつての日本人が床の間で裏側を仕切るという紙一重に懸けた美を失っていくとタウトは嘆いていたのだ、と言う。西欧のダメなところばかりマネしてきた、というわけです。これらの指摘は、今現在の日本を見ても、正鵠を射ていると言わざるを得ません。
ところで、周知のことですが、ドイツにはマイスターという制度があります。そういう制度があることから、彼らの手仕事に対する日本人と類似した思い入れが想像されます。日本と違うところは、マイスター「制度」となっていることから分かるように、きっちり徹底する、ということでしょうか。ここがこうなのだから、あそこもこうでなければならない。というわけで、国のシステムにしてしまった。そういうドイツ人気質が、ひょっとしたらタウトに日本へのあのような指摘をさせたのかもしれません。日本の職人は、鮨屋でも大工でも、なんでもかでも、親方の下で何年も修行を重ね、技を盗み覚えていきます。システムは隠れて見えないのか、存在しないのか、ともかく前面には出てきません。
話はちと外れますが、かく言う私も、伝統工芸ならぬ技術文書の日英翻訳の大先生について勉強した時期がありました。言葉は生き物、若いエンジニアの書く日本語は自分だけしか理解できない支離滅裂、そんな素材から理路整然とした英語を仕上げるのは、まさに職人技に思えたものでした。
話戻して、いくつもの日本の伝統的工芸が消えようにしている現在を見ていると、ドイツのマイスターのような制度は一考の価値がありそうにも思われます。でもその一方で、何か制度を作って後継者を育成するなんてことは、やっぱり日本向きじゃあないような気がします。我らいろは堂としては、よし、と思う人が出てこいと願いながら、消えゆく技術を愛で、見つめ続けようと思います。
かつて、先の大戦で壊滅状態に陥った沖縄の染織の伝統が、大城志津子という熱血の人の登場で復活のきっかけを得たように、そんな人たちがあちらこちらに現れる希望を持ちながら。
※タイトルと内容の正剛、じゃなくて整合がとれませんでした!

ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880-1938)、ドイツ人の建築家。1933-36年に日本に滞在。出典-国際建築協会発行、「国際建築1939年2月号」1939年2 月10日発行。 出版後50年が経過し、著作権の保護期間が満了。
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能面のお土産
- 2009-07-16 (木)
- 生活・文化
高校生で合唱部に所属している娘が、この春、高校最後の公演でなんとポーランド+リトアニアに10日間かけて回ってきた。その際、学校側はポーランドの受け入れ先機関に、日本の土産として能面を贈ったとのこと。そういえば、能面は外国人に人気のある工芸品のひとつだった。
その話しを聞いて、以前に読んだ芝木好子の『日本の伝統美をたずねて』という本に「能面」があったことを思い出した。雨模様のある日、閉館間際に入った兼六園内の石川県立美術館に陳列されているさまざまな能面をひと通り見終わり、帰ろうとしてふと振り返ると、「一列に並んだそれらの能面がいっせいに眼をあげて私を見ていた … もう帰るのか、と呼びかけた能面に、私はこわいながら惹かれていたのだ」とある。
名工と言われた入江美法という能面師から女面を見せてもらった話がでてくる。「小面、若女、増女、深井などとあって、それぞれわずかに表情も、年齢も違っていて、思わず引き込まれる。小面は肌が白く、唇にほほえみのある清らかな処女の面で、匂いのない華やかさである。それに比べて増女は端正で品格のある、この世のものならぬ美しさをたたえている。」
私たちが能面を直に見る機会などそうはなく、実際私は未だ一度もそうした機会に出会ったことが残念ながらない。能面と言えば、せいぜい般若や翁、何と呼ぶのか分からない女性の面あたりしか知らなかったが、実は基本形で約 60 種、変形を含めると 250 種類ほどもあると初めて知った。
能面は大きく分けると、例えば次のように分類される。教科書などでよく目にする女性の面は「増女(ぞうおんな)」と呼ばれているようだ。これらの面の名前もまた独特で、該当する謡曲の中身と深くかかわっている。例えば、「邯鄲男」については現役の能楽師がこんなことを書いている。
◆女面
若い女性:小面(こおもて)、若女(わかおんな)、孫次郎(まごじろう)、増女(女、天女)、
中年女性:深井(狂う)、曲見(しゃくみ)
老女:姥(うば)、泥眼(嫉妬)、鉄輪女(かなわおんな)
◆男面
少年:童子(どうじ)、慈童(じどう、妖精的)、喝食(かつじき、稚子)、
青年:若男(わかおとこ)、今若(いまわか)、敦盛(あつもり)
武人:平太、中将
老人:翁、皺尉(しわじょう)、悪尉(あくじょう、強くて恐ろしげな老人)、邯鄲男(かんたんおとこ)
能面の素材はヒノキで、昔は 10 年ものあいだ水漬してから使ったそうで、今も 3 年くらいは寝かせておくのが普通だと言う。面の裏側には漆を塗り、表は和紙を張って彩色する。狂言に使う面と比べると薄手に出来ていて、喜怒哀楽を微妙な表情で表現している。
ちょっと古いが、平成15年版の「全国伝統的工芸総覧」を見ると、京都に能面制作会社が 4 社、従事者数 6 人とある。やはり将来が心配になってしまうが、ネットで調べてみると、会社を定年退職した後、能面作りを趣味にしている人たちが案外たくさんいるようで驚いた。しかしこうした人たちは、入江美法のような本物の伝統芸を受け継ぐわけではないので、やはり先行きは厳しいのだろう。
* 能面を作ることを、「能面を打つ」と言います。「打つ」には、「細工して、ものをつくる」という意味があり、谷崎潤一郎の『蓼食う虫』に「古い人形が次第に使用に堪えなくなっているのに、新しい首(かつら)を打ってくれる細工人がいなくなった」の表現がある ― 出典: 学研国語大辞典。
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男も着物でいこう!幇間(ほうかん)という絶滅危惧芸人 ― その2
- 2009-07-16 (木)
- 生活・文化
前回(といってももう3ヶ月も前の話ですが)のブログに書いた、幇間(ほうかん)の、櫻川七好 (さくらがわ・しちこう)さんのお座敷はめずらしさもあって、印象に残っている。彼の軽妙な芸と芸人魂に感動したが、その日に着ていた羽織の裏にも技あり で驚いた。いわゆる、春画ってやつで、男女がからむ姿がかなりリアルに描かれている。なんと豪華で、なんと色っぽいこと! あえてそんな図柄の生地を探し 集めて羽裏にあつらえたというのだから、七好さん、さすがに遊びの達人だけあって念が入っている。ちなみに、この羽織掲載の記事は、5月18日に発売され た『オレキバ』にてご覧いただけます!
この羽織は「裏勝り」という着物のおしゃれのひとつ。表地はいかにも落ち着いた無地や縞でも、裏地に高価な生地が用いられたり、見事な山水画や浮世絵が描かれたりして、派手さ、趣向の点で、表地に「勝って」いるからだが、そこがなんとも粋なんだなぁ。
そもそも、いまは絶滅危惧さえ案じられる着物を日常着としていた日本人は、その昔から男だってかなりお洒落だったのだ。むしろ、男のほうが衣装と しての着物にバラエティがあったともいえる。例えば、戦国時代の武将たち。織田信長や伊達政宗の派手な陣羽織は、ここぞとばかりに戦場で目立つために凝ら した色、柄、装飾に、現代でも通じるほどのファッションセンスが光る。
江戸時代も元禄以後、裕福な商人たちが台頭すると、男たちは着物に贅を尽くし、小物にこだわり、着飾って歌舞伎見物や遊郭通いなどを楽しんだ。そ こへ、幕府による改革の目玉(?)ともいえる奢侈禁止令が出た。絹の着物や派手な色柄といった贅沢をしちゃいかん、というのだ。
もっとも、禁止されて、はい、そうですか、といって素直に従うなんてあり得ないのが江戸っ子だ。おしゃれな人ならなおさら、そんな愚令を受け入れ るはずがない。むしろ、なに言ってやがる! と内心叫びながら、どんどん見えないところに凝っていった当時の男たちの反骨精神が「裏勝り」に表れている。
そんな江戸っ子の精神性を受け継ぐ七好さんの、いかにも着物を着慣れた所作、立ち居振る舞いを見ていて、私は確信した。なにが色っぽいといって、 男性の着物姿ほど色っぽいものはないのではないか、というかなり昔から心に秘めていた思いを……粋な風情がきちんと出れば、男の着物姿はホントにカッコい い。
身近に着物を着る男がいなければ、例えばNHK大河ドラマを見ればいい。今年も高視聴率の『天地人』でいえば、阿部寛のようなバタ臭い顔立ちで も、上杉謙信の香気がその衣装からも漂ってくるような気がする。昨年の『篤姫』の徳川家茂役の松田翔平はまるで七五三のように着物姿が初々しく、一昨年の 『風林火山』で内野聖陽が演じた山本勘助は、武田信玄に仕官するまで身につけていたよれよれの着物が彼の生き様のままに野趣に満ちていた。どんな役であ れ、各俳優の演技に妙に惹かれたのは、その人物の魅力が着物という衣装を通じてちゃんと伝わってきたからだと、着物ウォッチャーの私は信じている。
でも、テレビや映画の劇中ではなく、実際に身の回りで男たちの着物姿をもっと見たいものだ。男性の皆さん、ぜひチャレンジを! これからの季節、 まずは初級の木綿の浴衣からいかがだろうか。着物と帯などがセットで売っている。さらに、シャリッとした麻の着物にキリッと角帯締めて、というのもおすす めだ。あるいは、いっそ本格的に、涼しげな紗(しゃ)の着物にパナマ帽なんぞ被って決めれば、お洒落度は上級並み。和服版粋なチョイワルオヤジが気取れる というものだ。
平成大不況とはいえ、奢侈禁止令などは出ていない。手頃な着物はたくさん出回っている。しかも、着物なら気になるメタボ体形も隠せる。着物を着る ために伝統的なお稽古事をする女性が増えているように、男性もそんな場をつくって着物を着ていくようにすればいい。そして着慣れるころには、洋服を着てい るときとは違った、女性たちからの興味津々の視線を浴びるようになるはずだ。これぞ、「男勝り」なナデシコたちさえものにできるかもしれない着物の効能な のである。もちろん、七好さんはその効能のいかんを教えてはくれなかったけど、お座敷に呼べば、教えてくれるかもしれませんよ。(石原恵子)
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幇間(ほうかん)という絶滅危惧芸人 ― その1
- 2009-02-08 (日)
- 生活・文化
雑誌の編集者兼ライターという仕事柄、ちょっとめずらしい職業の方に会うチャンスに恵まれます。例えば、「幇間」。なんて読むの? と思われる方も多いかもしれないこの名称、答えは「ほうかん」です。別名、太鼓持ち。芸妓や落語家と同じ、れっきとした芸人さんのことですが、現在は日本全国でたった
の4人、それも浅草の見番(いわゆる花柳界のマネジメント事務所)にしか存在しないのだとか! それはもう、絶滅危惧動物にも等しいほどの希少価値なのです。
で、先日、『オレキバ』という雑誌(2月5日に新創刊)の取材に便乗する機会があり、担当のライターやカメラマンの
方と一緒に、浅草の小料理屋の「お座敷」へ。お客は私も含めて、全6人。そこへ粋な着物姿で現れたのは、櫻川七好(さくらがわ・しちこう)師匠という幇間でした。
「もともと幇間の幇の字は助けるという意味で、いわばお座敷の間をもたせるのが仕事。男芸者などとも呼ばれていてね、しゃべったり、踊ったり、ヨイショしたり、いろいろ忙しいんですよ」などとその軽妙な語り口に耳を傾けていると、合間合間に入る冗談や皮肉などに、一堂、思わず笑いがこぼれます。その後は、「かっぽれ」を踊り、「芸者さんの一日」という当て振りを熱演するなど、その芸のほとんどを披露する大独演会。私たち観客は大いに楽しませてもらいました。
この七好師匠がこんなことを言っていました。「なくなりかけている職業というテーマで、数年前、新聞記者が私のところへ取材に来てね。聞けば、幇間のほかには、箍(たが)職人も選ばれたと言っていた」と。
昔から、酒、醤油をはじめ、さまざなものの容器としてつくられてきた樽を締める箍。樽にはなくてはならないもので、これをつくり、修理する職人がいなくなると、その樽本体を使えなくなる日が確実にやってくるわけで、実は、そうやってこの国は多くの貴重な伝統品を失ってしまったか、あるいは失いつつあるのです。
幇間も、いずれはいなくなってしまうのでしょうか。それではあまりにさみしい……。お座敷遊びは、一部のいわゆる旦那さん(パトロン)だけのものではなく、一般の人にもぜひ経験してもらいたい、と七好さんは訴えていました。芸妓や幇間をあげて、普段接することのない別世界の楽しみを味わう。それは、結局、日本人が大切にしてきた、たしなみとしての芸や人との交わり方を守っていくことにつながるのではないかと思うとき、これからの日本がそういう意識をもって伝統品や伝統芸への絶滅危惧度を減らすことを願うばかりです。(石原)
※この取材時の記事は、『オレキバ』№2(5月中旬発売)に掲載されます。
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