九谷焼にかけた壮大なる夢、吉田屋伝右衛門

去る1月にNHKの新日曜美術館で美術展「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」に関連して九谷焼と吉田屋について取り上げていました。ご覧になった方もいらっしゃることと思います。古九谷と言えば、江戸初期のわずか40年ばかりの間に生産されていた焼物の名品ですが、生産地にも諸説あるほど、わからないことが多いのです。今回の「吉田屋展」に向けて発足した研究会では歴史的背景を研究し、いろいろなことが明らかになってきたと言います。

いろは堂の吉田屋風商品:河島 洋による壺、S7-5044 古九谷が消えてしまって100年以上も後に、72歳にして九谷焼の再興に着手した加賀の商人、四代目吉田屋伝右衛門の話は非常に興味深いものです。長年コツコツと古九谷の釉薬を研究していたという釉薬調合の職人、粟生屋源右衛門が、九谷焼を愛してその再興を夢見る伝右衛門と出会ったことで、九谷焼の再興という壮大な浪漫が現実のものとなっていきます。伝右衛門の巨額の財を注ぎ込もうという熱意と、命の危険をも顧みずに伝右衛門の下で釉薬の調合を完成させた源右衛門がいなければ、今日の九谷焼はなかったかもしれません。

 ついに開かれた吉田屋窯には、何人かの上絵師がいたこともわかっています。通常は作品に絵師の名前はないのですが、特に優れたものはほとんどが鍋屋丈助の手によることが明らかになってきたと言います。画を学んでいたことのある上絵師、鍋屋丈助の技術は秀逸で、「鷺に柳図平鉢」など繊細な筆づかいには目を見張ります。量産を目指さずに鍋屋丈助が古九谷同様、一品一品絵筆をとっていったのでしょう。

 その後、吉田屋窯はまもなく閉じることとなりますが、青手古九谷の伝統を受け継いだ緑、黄、紫、紺青の四彩による繊細にして重厚な九谷焼の画風は現在でも吉田屋と呼ばれます。また、伝右衛門らが再興した九谷焼と区別するために江戸初期の九谷焼を古九谷と呼ぶようになったそうです。

 この「吉田屋展」は残念ながら東京ではもう終わってしまいましたが、3月26日まで石川県九谷焼美術館で開催中で、その後、京都、茨城、名古屋と場所を移しながら7月17日まで開催される予定です。