能登半島最先端の灯台(珠洲市・禄剛崎)

妻と娘がこの秋、石川県の奥能登巡りの旅にでかけました。一昔まえの奥能登は県外の人間が訪れることなどない秘境のような土地だったそうですが、近年は観光ブームもあって多くの旅行客が訪れるようになっています。しかし、妻が実際に歩いてみたところ、地元の人々の日常の姿に出会うことがほとんどなく、ひっそりとした感じがしたとのことでした。

奥能登の行政区域は、輪島市(わじまし)、珠洲市(すずし)、穴水町(あなみずまち)、能登町(のとちょう)の4市町で、面積は1,130平方キロメートルあまり。これは石川県全体の27%ほどにもなりますが、人口比はわずか5.6%に過ぎず、過疎地域とされています。そんな状況を危惧してか、能登町では移住相談や移住体験などの取り組みが進められています。住宅の取得費用の助成や子育ての支援などもなかなかに充実しているように見えます。興味のある方は、ちょっと覗いてみてはどうでしょう?

ところで能登は古代から中世にかけては罪人が流される辺境の地とされていました。事実、源平の戦いで破れた平家の一族(平時忠)は珠洲市大谷に流されてきました。それが後に姓を変えた現在の時国(ときくに)家でした(上時国家と下時国家)。時国家は江戸時代にはこの地域の庄屋として大きな船を何艘も所有し、北海道で仕入れた昆布を京都・大阪に運んで商売をするなど、単なる豪農を超えた存在になっていました。同家の当主はいま25代目だそうです。

平時忠一族の墓所
時国家(本家: 上時国家)のウェブサイト

時国家の古屋敷は国の重要文化財に指定されていて、見学することができます。建物は江戸時代に水害を避けるために高台に建て替えられたものだそうです。管理しているのは現在の時国家のご家族のようで、運がよければ800年もの時を超えて生き抜いてきた平家の末裔のお嬢さんと言葉を交わすことができるかもしれません。

さて、そんな奥能登の日本海側にある曹洞宗系の総持寺祖院を訪れたところ、寺の敷地内で3体の地蔵に出会いました。味噌すり地蔵、おそうじ小僧、そして乳もらい地蔵です。

味噌すり地蔵

味噌摺り小僧の昔話はこちらに

乳もらい地蔵
おそうじ小僧

乳もらい地蔵

このお地蔵さんには、こんな謂われが立て看板に書かれています。

死んだ母親が、のこした我が子のために夜な夜な飴屋に通い、母乳の代わりに飴を買って育てました。その子が後の総持寺五代通幻寂霊禅師と言われています。禅師が住職となった時、母の慈恵に報いるために、また親のない子どの成長を願い、ここに地蔵を安置しました。以後、乳がでないで困っている女性や子育てに悩む父母を手助けしてくださるご利益があると言われています。慈悲深い笑みをうかべ、人々を暖かく見守っています。

母乳代わりに飴を? とちょっと疑問に思ったので、調べてみました。すると、石川県の金沢に江戸時代から180年も続く「あめの俵屋」というお店があるのを見つけました!そのお店の説明書きには、「創業のころ初代次右衛門が、乳飲み子を抱えながらも母乳が出ずに困り果てた母親の姿を見て、何とか母乳の代わりになる栄養価の高い食品はないかと考えた末に作り上げたのがはじまり」とありました。なんだか話がつながっていますね。

「俵屋のあめの原料は良質の米と大麦。砂糖が私達の生活に入ってくる以前に、穀物の甘味を得た、先人の知恵…」とあります。これなら赤ちゃんにもいけそうかな!?

因みに、江戸では飴売りという商売があり、下の浮世絵のような格好で三味線をひいたり笛を吹いたりしながら町中を売り歩いていたそうです。

十三代目市村羽左衛門の飴売渦松
初代歌川芳艶 画『飴賣渦松 市村羽左衞門』。
虎屋文庫収蔵 / Collection of the Toraya Archive – 江戸食文化紀行 – No. 25 飴と飴売り

観光地図:
「能登の観光マップ」(「能登路へようこそ」さんのウェブページです)