人生を振り返ってみると、大抵はこの人なくして今の自分はありえないと思える恩人が存在するだろう。私にもそんな人が何人かいる。前稿で紹介した藤井氏はその一人だ。

本稿に登場する野村堯先生もそうだ。お会いしてお話しをしたのはわずか3度ほどしかない。実質的に2時間かそこらしかないわずかな交流だった。しかし、まったくの赤の他人からの不躾なお願いを快く聞いていただき、思いも寄らない唯一無二の貴重な体験をさせていただいた、かけがえのない恩人だ。

中・高生をコーチすることに決めた後、教えるからには卓球のことをしっかりと理解しなければと思い、勉強した。当時の唯一の月刊卓球専門誌『卓球レポート』を定期購読し、また元日本代表監督の野村堯先生が執筆された『卓球』という本を買って読んだ。だが、この本は初心者向けのもので、まったく物足りなかった。

もっと詳細で実践的な知識が欲しかったのだ。そこで考えた。野村先生は当時、早稲田大学の卓球部の監督をされていたので、直接、コーチングについて教えてもらうことはできないだろうか、と。早速、大学の住所宛に事情を説明し教えを請う手紙を出した。

僅かな希望を抱きながら返事を待っていると、思いのほか早く一葉のハガキが届いた。それには、毎週、xx曜日とyy曜日の xx時〜xx時までxx体育館の教務室にいるので都合の良い日時にこられよ、と書かれていた。「やった!」と小躍りする思いだった。その翌日だったか翌々日だったかの午後、きたない文字で書き溜めていた練習計画や、技術習得のタイムスケジュールなどの資料を持って早稲田大学の最寄り駅のひとつ、高田馬場駅で降り、大学通りを歩いて目的の体育館を訪れた。

※ 高田馬場駅は学生会館のある野方から近く、卓球の練習を終えてから、藤井氏と一緒にこの近辺にあるバーやパブでカクテルや酒を飲み、ビリヤードなどをして遊んだ。

広々とした体育館ではすでに20人ほどが練習をしていた。フロアに降り、壁際をゆっくり歩きながら見ていると、どこか見覚えのある少し年配の左利きの人物がボールを打っている。それは紛れもなく『卓球レポート』誌で見たかつての全日本チャンピオン木村興治氏だった。そして背中を見せている相手はその頃の早稲田大学のエース今野だった。

奥のほうに教務室とおぼしき部屋が見えたのでそちらに行くと野村先生がおられた。「いやぁ、よくいらっしゃいました」、と丁重に迎えてくれた。柔和で腰の低い方だった。

こちらはまだ18歳の青二才で、卓球にも大した実績はなく、緊張していて思うように話すことができなかったが、精一杯、自分の気持を伝え、ノートに書き付けた練習方法や、インターハイ出場を目指して中1~高校2年生までの5ヶ年の計画についてご説明した。

話しが一段落すると、ノートの内容については後日メモをいただけることになった。そして、「しばらくここに通って練習しながら色々勉強してみたらどうですか」とおっしゃり、部屋を出て練習場に連れていかれ、部員らを集めて、「この方、諸田さんといって他の大学の方だけど、母校の中学生を指導するために勉強にこられた。しばらく一緒に練習しながら面倒をみてあげてください」と紹介されたのだった!

この展開にはかなりビックリしてしまったが、しばらくの期間、早大生部員たちに混じって練習をさせていただいた。レギュラークラスの選手や全日本レベルの選手と何度かボールを打ち合うことができ、その強さを実感することができた。

しかし、休んでいる時間が、私にとってはより一層かけがえのない時間だった。当時の早稲田大学のこの体育館には、外部から多くの著名な選手が練習に訪れていた。かつての世界チャンピオンの長谷川を筆頭に、全日本クラスの選手たちがくる。そうした選手の練習やゲームを目の前で見ることができた。

なるほど、野村先生は私に言葉ではなく、自分の目で一流の選手たちの卓球を直接見る機会を与えてくれたのだ。

それから約1ヶ月ほど、大学の授業には一切出席せずに、早稲田と母校に通い続けた。その後しばらくして先生からメモが戻ってきた。末尾に次のような言葉があった。「あまり細かい計画は立ててもうまくいきません。地道な練習を根気よく続けて、正しい姿勢・動きを身につけるよう指導してください。きちんと努力している選手は、突然、豹変することがありますよ。ここで見て、体験したこと、目にしたことを元に、生徒さんの姿を毎日しっかりと見続けてください」。 

こうして、藤井氏と私の二人三脚のコーチングの日々が始まるのだった。藤井氏は卓球部の包括的な活動全般をみた。会社に例えれば、卓球部の部長先生が社長で、藤井氏は経営管理・企画部長と言った役どころ。私は技術部門長として練習計画とその実行、各選手への具体的な指導など技術面を担当していた。この役割分担がとてもよく機能したと思う。

※ 今にして思えば、二人のこの関係性は、後年、2つ目の翻訳会社を始めたときの相棒と私との関係にそっくりだ。彼は営業・管理業務を行い、私は主に翻訳実務とその管理をしていた。

>> 続く