スタインベックと旅、そして本

ジョン・スタインベックは、怒りの葡萄やエデンの東、などであまりにも有名ですが、ついこのあいだこのブログに書いた「お盆とお墓」の中で、日本中のいたるところに出稼ぎの人たちがいて、自分の故郷ではない他人の土地で数えきれないほど多くの人々が眠っているという話を紹介しました。その連想で、そういえば昔、スタインベックが犬を連れてアメリカを旅した話を読んだな、と思い出しました。

チャーリーと旅 by スタインベック
チャーリーとの旅 by スタインベック

私は中学と高校の六年間、寮生活(寄宿舎生活)を送りました。中学校入学が決まった後のある日、父母に連れられて寮を訪ね、「それじゃお前は今日からここで生活することになる」とか何とか父親に言われ、私は一人そこに置いていかれました。小雨の降る日で、なにやら心細い、ちょっと悲しい気持がしたことを、うっすらと覚えています。

ところでこのとき、私にとって劇的なことが起こりました。それは生まれて初めて毎月小遣いをもらうようになったことです。学校で決められていた金額は、2000円。自分の自由になるこんな大金を初めて手にしてとてもうれしかったことを、鮮明に覚えています。

当時、学校の周りにはほとんど何もなく、あるのは校門を出て2、30メートルほど行ったところに中華そば屋と小さなスーパー、少し離れて肉屋があるだけ。しかしそこから数百メートルほど先に、小さな小さな書店がありました。八坂書店と言います。

本を読むのが好きだった私は、初めてもらった小遣いをポケットに入れ、ある日 ― 多分、土曜日の午後 ― 外から見ると薄暗い、この書店にオソルオソル入る。そして、ある本を買いました。今となっては記憶があいまいなのですが、太宰治の「人間失格」か、ヴィクトル・ユーゴーの「93年」のどちらかだったと思います。

93年は、1793年のことで、フランス革命真っ最中の時代を描いた小説です。どちらも、なんで中学一年生が読まなければいけないのか、といった選択でしたが、「93年」は父親からその内容の一部を聞かされていたのがきっかけだったことを記憶しています。「人間失格」については、寮でこれを読んでいるとき、同部屋の高校一年生の先輩から、なんで中一が人間失格なんか読んでるんだ、と言われたことをはっきり覚えています。心の中で、そいつに向かって「うるせぇ」と言いました。

それにしても、大体、若いころ読んだ本の内容なんてものは、後々まで記憶に残るということは少ないのではないでしょうか。大人になってから、書店で面白そうだな、と思って買った読んでいたら、あれ、これ前に読んだことがあるなぁ、と思い出したリすることが時折あります。してみると、読む本の傾向というのは、若いころからあまり変わらないのかもしれません。

数年前に、荒川洋治という現代詩人のエッセーを読んでいたら、スタインベックの話がでてきて、本について私が感じていたのと似たようなことを実にうまく書いてあるのを発見し、嬉しくなりました。

 大学一年のときの、最初の授業のテキストはスタインベック『チャーリーとの旅』。教室では英語の本。ぼくは英語が苦手。日本語訳を買って読む。しぶしぶ読む。それから三五年後、古書店でその本と再会した。
 何十年も自分の国について書いてきたのに、そのアメリカという国を知らないことに気づいたスタインベックは愛犬チャーリーを連れてアメリカ大陸の旅に出る。五十八歳のときである。

今の私と同じ年にスタインベックは、そんな旅に出たのでした!

 今ならそのことについて何かをぼくは思うが、学生のときは何も感じない。今日の授業はチャーリーか。チャーリー一冊を、教室まで連れていくだけである。ではこの本が何ももたらさなかったかというと、そうでもない。
 そのスタインベックの最高傑作『ハツカネズミと人間』をそのあと、それも五十歳を過ぎてから読み、僕は感動するのだが、その夢中のさなかにも、あ、チャーリーを連れて旅をした人だと、遠くのほうで、思っていた。

そうだなぁ、と思いました。

 一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分の中に何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。流されもしない。
(中略)
 最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。
 読書とはいつも、そういうものである。

私は、これを読んで感動してしまいました。詩人とはすばらしいなぁ、と。詩人は散文を書いても詩人だ。